2024年5月20日月曜日

今頃になって、唐十郎作品を考える

最近詩について考えることが多いので、唐十郎氏の訃報を読み考えてしまったもろもろ。

近代以降の詩が現実日常生活ではあり得ないような単語の組み合わせにより、逆に内面に肉薄した表現を獲得していったように、例えば理不尽なまでにカンテンを押し出す棒にこだわって叫ぶという行為によって独自の心象風景を描くというのが、唐十郎氏のとった方法なのだ、ということが今になってなんとなく理解できる。昔の自分はなんとなく感じていただけで、方法として考えられていなかったなあと思う。それは、人情や道徳や社会性を軸にしたドラマとは別のもので、しかし詩であるということでしか語れないものなのだ。

詩について語る人も、舞踏について語る人も、その語る口調そのものが詩的に歪曲してることがけっこうあって、それはそれでかっこいい部分でもあるのだが、よくも悪くもごまかされる感じもある。 だから、あまり信じすぎないことが肝要ではないか。もっとも語っている自分自身もごまかされて、そっちの世界に行ってしまえればそれはそれで凄いのかもとも思う。実際、舞踏をやっている人と話していると時々、ああ、言葉のルールが違うなあと感じることがある。それでも何とかコミュニケーションはとれたりとれなかったりする。

 こういうことを、昔、河原猫芝居と称して野外演劇をやってたころにちゃんと考えられていたなら、何か違っただろうか? あまり変わらないかもしれないが、不安感はもっと減っただろうなと思う。


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