2023年5月30日火曜日

フリージャズについてなど


 先日、フリージャズの映画のイベントで、フリージャズを演奏するということをしたのだけれど、考えてみるとフリージャズというのもよくわからない。

いわゆるフリージャズと呼ばれる演奏者、オーネット・コールマンやアルバート・アイラー、セシル・テイラー 氏らの演奏は同じジャンルにくくられてはいるものの、別の方法で演奏しているし、完全に無茶苦茶やってるわけでもなく、それぞれに方法論があり、それなりにしばりもあるように聞こえる。

オーネット氏の場合、リズムセクションは普通にかっちり刻んでるし、サックスのフレーズはテンポに関して自由ではあるがかなりチャーリー・パーカーのフレーズに縛られてるようにも感じる。アイラー氏の場合は逆で、リズム隊は自由にテンポを無視して遊んでるが、フレーズがかっちりしている。セシル・テイラーさんの場合は、おそらく想像だがセロニアス・モンク氏の和音のイメージを追っていて、ソロなんかはかなり自由だが逆に何というか黒い不協和音を出そうという縛りを感じる。

 つまり、何もかもフリー、というのは、少なくとも著名な演奏ではあんまりないんじゃないか、と思う。

しかしながら、日本の演奏の現場では、とにかく出たとこ任せのなんでもありフリーなライブ、というのが結構ある。

これは、ひとつの原因として、「そういうのが熱い」と思われた時代のイメージを追っている風潮が残っているんじゃないかと思う。革命とか解放とかのイメージとともに語られるフリージャズのイメージ、というのが、たぶん、ある。悪い言い方をすれば時代のイメージに甘えているともいえる。

しかしじゃあ、出たとこ任せのルールなしの演奏があまり意味がないのかというと、そうでもなくて、普段コードやリズムに振り分けている集中力をその一瞬に集中できるという利点は、時にすごくいいものを出してくるように感じるし、実際そういう演奏が出来るときもある。

結論としては、難しいけどいろいろ模索していくしかない、というもやっとした言い方になってしまうのだけど、そんなもんじゃないかな。すくなくとも、フリーであることに甘えることなく、模索し続けることに意味はある、と思う。