2023年12月17日日曜日

断片的夢日記

 修学旅行の夜のことだったと思うがよくわからない。

夜の海辺の町に居た。青白い街灯に照らされて居た。

 上の方に通っている道のトンネルから大きいタンクローリーが 出てきて曲がろうとするのが見えた。これは曲がり切れないだろうなと思う。つまりこれは危険だから逃げなくてはと思っているのだが体が動かない。そうしているうちに、どんどんタンクローリーは道路をはみ出してくる。動かなきゃと思うのだがやはりうごけない。タンクローリーの動きもやけにゆっくりだ。動けと思うと手足がようやくゆっくりと動く。気が付くと下のテトラポットのあたりまで飛び降りている。つんのめって海に落ちたらどうしよう、寒いだろうなと一瞬思ったがなんとか踏みとどまる。

その時、頭の上の方を暖かい物が通り過ぎていく感覚があって、さてはタンクローリーが落ちて炎上したかと思う。上の道路によじ登ってみるとはたして、道脇の芝草が皆焦げている。

しかし爆音は無かったのは何故だろう、と思いながら立ちすくんでいる。

2023年12月13日水曜日

じわじわ、カッコつけるかカッコいいか

 ついついぼんやりみてしまうYouTube、「8番出口」ゲーム実況を見てしまった。じわじわくる静かな怖さはこれはまあキューブリックの「シャイニング」のオマージュ、というのは結構多くの人が言っていると思うんだけど、うんそうだよな、と思いつつなんかピンと来てないのは、私自身「シャイニング」がそんなに面白いと思ってなかったからだろうな。ずいぶん昔に見たけど、もやっとした演出に「だから何だ」と思ってしまった記憶がある。

しかしながら、逆にこういうゲームでのリスペクトの形で見せられるとそのよさがわかる。 なるほど、こういうじわっと怖い系が好きな人もいるのだな。

そういえば先日バーに行ったとき、四方山話として内田百閒の「冥途」を読書会で読むのだという話を聞いたが、あれもじわりと怖い系の話ではないか。多くの部分はわからないままに隠されている、隠されているままなのが怖い。のかもしれない。私の好みとしては漱石の夢十夜のほうが好きなのだけど、それはそれとして。

 


 

 ☆

友人の個展を観に行って、カッコいいということとカッコつけるということの境界線について考えた。

自己演出としての表現、という傾向を持つ人は結構いるし、それは別に悪いことではない。しかし、それを自分の中でどう消化するかというのはなかなか難しい問題のような気がする。文学で言えば、山頭火や太宰のありかたをカッコつけているという人はいるだろう、カッコいいという人もいるだろう。 

でもそれは彼らが選べるものではなく、そうなってしまった人が必然的にそうあってしまうものかもとも思う。

ただ、受け取る側としては、そういう自分演出とかそういうものを超えた地点を見たいと思うんだよなあ。