2024年11月17日日曜日

近況 2024 11 17

妙に暖かい日がつづいているような。低気圧のせいかな。

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最近、時々火鍋の素を買ってきて食べたりしているが、どうにも量をもてあましてしまう。カレーの固形ルーと同じく、5人前ぐらいが最低限作る量みたいになってしまうので、ちょっと一人暮らしには多すぎるんだよな…。誰か辛い物が好きな人が一緒に食ってくれないものか。

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図書館で試しに、電子図書で「変な家」を予約してみたのだが、予約待ちが多数でえらい待たされている。電子なんだから、いくらでも複数人にアプローチさせる方法はあるだろうに、権利の問題かお役所仕事か何か知らないが、めんどくさいことだと思う。

しかしそもそもコピーライツという概念のありかたが ネットによって変質せざるをえなくなってきている、というのはうがちすぎた考え方だろうか。

Steamで、ムーミン谷のメロディというゲームがあるらしいというのが気になっている。たまたまYouTubeでちょっと動画を見ただけだがかなり心惹かれる。これは買うべきかどうか…。

 

2024年10月14日月曜日

近況 20241014

 先週土曜日のイベントのためにしばらくアコーディオン中心の練習をしてきていたけれど、さてさてまたピアノ中心にもどそう。

アコーディオンはやはり、蛇腹の開け閉めをちゃんと意識できるかがミソだよなあ、と改めて練習していて思った。しかし蛇腹に集中するためには運指をちゃんと出来ねばならず、結局どちらも大事なのだとぐるぐる考える。道は長いな。

 土曜日のイベント、やんぢゃさんの「パフォーマンスから詩を作る」という発想は面白かった。客から感想を聞き、その言葉をつないで作品にする。なるほど、たしかにそういう方法で詩を作ることはできるな。しかし、何というか、残すための詩ではなく、風のように吹きすぎていく詩というか。

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夜は冷えるようになってきた。体が湯たんぽを使う日々を求めているのを感じる。

2024年8月17日土曜日

近況 20240817

図書館でナムジュン・パイクについての本を借りてきて読む。フルクサスについてはいつか、ちゃんとまとめて考えたいと思っていたので、そのあたりの本を借りてきたのだ。

本の中でジョン・ケージの作品について「退屈と逆説で出来ている。」と表現していたことになるほどと思う。「退屈」というのは言い換えると瞑想的と言ってもいいと思う。確かベートーベンが嫌いでサティが好きなケージさんは音楽でとろんとした気分になりたいのだと思う。"Landscape"なんかはそういう作品なんだろう。逆に"4分33秒"などは逆説なんだろうな。たしかに、その2つのモチベーションで考えると、ケージの作品がけっこうクリアに理解できるような気がする。

近所のコンビニで立ち読みが出来ないようになっていた。しかし「最近はだいたい電子で読めるからまあいいや」と思えるようになってしまったのが自分で変な気分だ。 そのうち立ち読みどころか紙媒体の雑誌コーナー自体がなくなることもありうるよな、と思う。そうなったとき、失われるものは何だろうか。


 最近空心菜が安いのがちょっとうれしい。じゃこと炒めるのが好き。

2024年6月19日水曜日

近況 20240619

 エレピで演奏する機会があるため、ちょっとずつエレピで練習する時間もつくっている。急に久しぶりに電子ピアノを使うと、感覚が混乱するから、慣れていかねば。

思えばYAMAHAのP120は、元田中で下宿してたころから使っているので、もう、えーと、20年以上使ってることになるのか。もうちょっと軽くて持ち運べるものに買い替えようか、などと考つつそれほどエレピ使う機会もないので、そのままたまに使っているわけだが、よくもってるよな。

 たまに楽器屋の店頭で販売しているものを触ったりしてみるが、いくら技術革新がすすんでも、エレピはエレピで、アコースティックはアコースティックだなあと感じる。響き方がどうしたって違う。


急に暑くなったり、またちょっと戻ったり、なんともな気候変動だが、草木や虫なんかは大丈夫だろうか。われわれはどういう方向によじれてゆくのだろう。


亀鳴く夜なにかが水に潜り消ゆ



2024年5月30日木曜日

Here

 映画 ”Here”を出待ち座で観てきた。いや出町座か。(変換でいつも出待ちになってしまうのなどうなんだ)

この映画のキモは別に多国籍人種どうこうというところではなく、男女がいい感じになったところで、ぽんと言葉が飛んで緑というイメージに収束する詩的効果なのだと思うのだけど、それをわかる人も分かろうとする人も少ないのではと思う。実際映画館で私の観た時は観客一桁ぐらいだったような。しかしながらそれを評価する人がいるのも事実であり、それはなぜかというと、「客に考えさせるタイプの作品は、はまれば客に深く爪痕を残す」ということなのだろうと考える。

それは小説がハマれば漫画より深く心に残ることが多い、というのと同じなのかなと思う。だからといってどっちが尊いとかいうつもりははい。ただ、受取り手が作品を感じ取るのに苦労した分だけ、多く感じようとするのは自然なのではと考える。

⭐️

ちなみに出町柳商店街では今日はキュウリが安かったのでキュウリを買って帰った。






2024年5月29日水曜日

近況 20240529

 なんか、ここに書くのも何かと思うが、めずらしくライブ予定について書く。

実は最近、ZACBARANで空いた日にソロで入らないかという打診があり、その予定が実はたくさんある。が、まだはじめてない試みでよくわからないし、主たる目的は外人客の確保にあるので表向きには書いていない状態だが、とりあえずここには書いておく。隠してるわけじゃないし、気楽に来てもらってもOKだろうということで。

6月の池田のスケジュール

4火 ZACBARAN ソロ 20:00~ チャージ 1000円

8土 Jericho (札幌)デュオ 15:00~ 一般1800円 学割1000円 無料配信あり

11火、ZACBARAN ソロ 20:00~ チャージ 1000円

12水、ZACBARAN ソロ 20:00~ チャージ 1000円

13木、ZACBARAN ソロ 20:00~ チャージ 1000円

21金、ZACBARAN ソロ 20:00~ チャージ 1000円

25火、ZACBARAN ソロ 20:00~ チャージ 1000円

26水、ZACBARAN ソロ 20:00~ チャージ 1000円

27木、ZACBARAN ソロ 20:00~ チャージ 1000円

29土、"コミュニティセンターいきな" ソロ 未定だが多分5時頃からで1,000円ぐらい。 

 


 

2024年5月20日月曜日

今頃になって、唐十郎作品を考える

最近詩について考えることが多いので、唐十郎氏の訃報を読み考えてしまったもろもろ。

近代以降の詩が現実日常生活ではあり得ないような単語の組み合わせにより、逆に内面に肉薄した表現を獲得していったように、例えば理不尽なまでにカンテンを押し出す棒にこだわって叫ぶという行為によって独自の心象風景を描くというのが、唐十郎氏のとった方法なのだ、ということが今になってなんとなく理解できる。昔の自分はなんとなく感じていただけで、方法として考えられていなかったなあと思う。それは、人情や道徳や社会性を軸にしたドラマとは別のもので、しかし詩であるということでしか語れないものなのだ。

詩について語る人も、舞踏について語る人も、その語る口調そのものが詩的に歪曲してることがけっこうあって、それはそれでかっこいい部分でもあるのだが、よくも悪くもごまかされる感じもある。 だから、あまり信じすぎないことが肝要ではないか。もっとも語っている自分自身もごまかされて、そっちの世界に行ってしまえればそれはそれで凄いのかもとも思う。実際、舞踏をやっている人と話していると時々、ああ、言葉のルールが違うなあと感じることがある。それでも何とかコミュニケーションはとれたりとれなかったりする。

 こういうことを、昔、河原猫芝居と称して野外演劇をやってたころにちゃんと考えられていたなら、何か違っただろうか? あまり変わらないかもしれないが、不安感はもっと減っただろうなと思う。