先日、SNSで流れてきたので、なんとなくYouTubeで、[ニュースの争点]「なぜ左翼は反日なのか?左翼嫌いのための左翼史(革命家 外山恒一)」を観た。そこでは左翼という概念の変遷がフランス革命から現代にいたるまでざっくりとわかりやすく解説されていた。それで観た結果これまでいろいろと、もやもやとしていたものがある程度、頭の中でまとまった気がするのでちょっと書いてみようかと思う。
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まず思いだす、「もやもやしたもの」が何かというと、それは学生時代のことになる。私は大学に入った初めのころは、学生運動のことなどほとんど知らなかった。それなのに大学に行ったら突然教室にヘルメット被った人が入ってきて、「君たちは!こんなことを!してる場合じゃないんだ!」とか叫びだしたのでびっくりした。私は見たことのない珍獣を見るような気分で彼らを遠くから見ていた。あるいは登校時に門の前でゲバ字の看板を前に彼らがアジっているのもよく見かけたが、関わり合いになろうとは思わなかった。
しかし、こちらは関わるつもりがなくても、ヘルメットをかぶった彼らはよく門の前で待ち構えていて、からんできた。「こんな状況なのに、見過ごすことはできないと、思わないのか?」と彼らは聞いてきた。話を聞くと、確かに彼らの言うように世の中にはひどいことがたくさん起きていて、それを見過ごすことは悪いことのような気もした。けれど、彼らについて行って彼らのような行動をしても、それがよくなるような感じもしなかった。だから黙っていつもやり過ごしていた。でも当時はなぜそう感じるのかをうまく言語化できなかったので、ずっともやもやしていた。 自分はこうやっているだけで、実は悪いことをしてるんじゃないのか?、そんな後ろめたさが頭の後ろにそっと張り付いているような気持がしていた。
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現代日本の左翼と右翼については諸説あるかもしれないが、私の漠然とした印象では、ちょっと悪く戯画化していうなら「戦争ハンタイ」と言ってるのが左翼で「日の丸バンザイ」と言っているのが右翼、というイメージだろうか。
しかしながら考えてみると、左翼が戦争反対で右翼が戦争推進のような言い方はちょっと変で、多分右寄りと言われている政党も実際戦争したいとは思ってなく、ただ、国際関係においてどうすれば戦争を避けられるか考えたときに、「兵隊がいれば戦争を避けられる」と考えるか「兵隊がいないほうが戦争を避けられる」と考えるかの違いで、右翼と左翼に分かれているのだろう。すくなくても現代日本では、たぶん。
そして、兵隊がいたほうがいいのかどうかという問題、これは正直、正解がわからない問題なのだろうな、と思う。これも誤弊がある例えかもしれないが、ガラの悪い中学校の教室でどうすればケンカせずにすむか、みたいな状況に思える。体鍛えて格闘技習っても「いきっとんなやワレ!」とケンカになるかもしれないし、笑顔で控えめにふるまっていても「きもいんじゃボケ!」と理不尽に殴られるかもしれない。状況によって何が吉と出るか分からない。
中学校に例えるのはひどいと言われるかもしれないが、国家の倫理観というのは個人間の倫理観よりだいぶ下がってしまう、というのは漱石の「私の個人主義」で読んで教わったし、その通りなのだろうなと思っている。でもさすがに幼稚園児の倫理観ではないだろうけど。
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なぜ国家の間の倫理観が下がってしまうのかというと、それはある程度以上自分から遠い他人に同情するのは、だいたいの人にとって無理だし、しんどいからだろう。アフリカで10万人の人が苦しんでると言われて、じゃあその10万人に同情して10万人分寄付できるかと言われても普通の人はできない。自分から遠い人に同情しはじめるときりがないので、だいたいの人は想像力に蓋をして、自分に関わることと、その親しいコミュニティのこと以上は考えないようにする。それがいけないというわけではなく、そうしなければ大抵の人はやっていけない。
歴史を考えてみれば、たとえば、アフリカの部族は隣の部族を白人に売り渡すことで奴隷制度を手伝っていたし、日本だって隣国の武将を殺すことが誉だった時代はあった。そこに「お隣さんに対する同情」はなかったし、同情してたらやってけない時代でもあった。
だから自分から距離が遠くなればなるほど同情心も倫理観も下がる。それでもお互いどうにかこうにかやっていこう、というのが国際政治なのだろう。
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左翼の話に戻すと、(外山氏の解説では)フランス革命成立当時、フランス人民の自由と平等をできるだけ押し進めようとしたのが議会の左側に座っていた左翼で、貴族と妥協して協調しようとしていたのが右翼だった、それが時代を経るにつれ左翼は世界人類の自由と平等を言うようになり、右翼は国家の安全を言うようになっていった。おたがいに、「守る対象」が変わっていった。
それは主に共産主義とその変遷に影響されてのものだ、と解説されてたしそうだろうなと思う。彼らはインターナショナルを志向し、今はマイノリティにも配慮していこうとしている。そうやってどんどん「守る対象」を拡大しようとしていったわけだ。その大きな潮流が今の左翼やリベラルといった人たちの傾向に影響して今の状況になっている。確かに理屈で言えば、世界のみんなが、平等に、権利と自由を享受するにはそうしていくべきに思える。(おそらくさらにその原因となっているのは情報の伝達の進歩によって「お隣さん」の概念が変化したことなのではないかと思うのだがどうか)
もちろん、そんな理想的に「みんな自由で平等に」物事は進まないし、ソビエトはロシアに戻り、共産化した諸国の多くは内戦で苦しんでたりする。 共産主義は美しい理想だが人間はそんなに美しくない、ということが20世紀の100年でだいたい分かってきてしまった。頭でっかちの理想主義で平等を押し付けても、たいがいひどい結果になってしまう。
ただ、じゃあ理想を語るのが間違いなのか、というとそういう訳でもなく、結局、理想と現実の両方をできるだけしっかり見据えていくのが必要、というなんか当たり前の言い方になってしまうがそういうことなんだろう。
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私の周りにはどちらかというと左翼よりの考え方を持っている人が多い。それはクリエイターとか表現に関わっている人が多いからだろう。そしてそれはそれでよいと思う。なぜならよりたくさん他者に共感してゆくというのが表現者の多くの在り方(すべてではない)だと思うから。
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