ついついぼんやりみてしまうYouTube、「8番出口」ゲーム実況を見てしまった。じわじわくる静かな怖さはこれはまあキューブリックの「シャイニング」のオマージュ、というのは結構多くの人が言っていると思うんだけど、うんそうだよな、と思いつつなんかピンと来てないのは、私自身「シャイニング」がそんなに面白いと思ってなかったからだろうな。ずいぶん昔に見たけど、もやっとした演出に「だから何だ」と思ってしまった記憶がある。
しかしながら、逆にこういうゲームでのリスペクトの形で見せられるとそのよさがわかる。 なるほど、こういうじわっと怖い系が好きな人もいるのだな。
そういえば先日バーに行ったとき、四方山話として内田百閒の「冥途」を読書会で読むのだという話を聞いたが、あれもじわりと怖い系の話ではないか。多くの部分はわからないままに隠されている、隠されているままなのが怖い。のかもしれない。私の好みとしては漱石の夢十夜のほうが好きなのだけど、それはそれとして。
☆
友人の個展を観に行って、カッコいいということとカッコつけるということの境界線について考えた。
自己演出としての表現、という傾向を持つ人は結構いるし、それは別に悪いことではない。しかし、それを自分の中でどう消化するかというのはなかなか難しい問題のような気がする。文学で言えば、山頭火や太宰のありかたをカッコつけているという人はいるだろう、カッコいいという人もいるだろう。
でもそれは彼らが選べるものではなく、そうなってしまった人が必然的にそうあってしまうものかもとも思う。
ただ、受け取る側としては、そういう自分演出とかそういうものを超えた地点を見たいと思うんだよなあ。
0 件のコメント:
コメントを投稿