2017年3月22日水曜日

「おもろトーク」

昨日友人の勧めもあってなんとなく、「第7回京大おもろトーク:芸術と毒の微妙な関係」を聞きに行ってきた。

時計台にちゃんと入るのは初めて。新入生のころに、ここは何じゃろな、とふらふら歩き回ったことはあっても、実際在学中に入る用はなかったので。
なんだか変な感じの気分だなあ、と思った。


最初にイントロダクションとして、山極壽一総長と文化庁の内丸氏が話して…、というと肩書きは堅そうだが、実際は結構やわらかい感じで話ははじまった。内丸氏は在学中らいふすてーじ(生協の広報誌)の編集をしていたそうな。文化庁京都移転の話や、文化と芸術をどうとらえるか、ということが語られた。概ね両氏に好感がもてた。

ただ、この最初の対話は、率直で好感が持てたものの、正直に感想を言うと、具体性がとぼしくて、実際各種アート(?)の現場に関わってるこちらからすると、なんだか双眼鏡で遠くから見られてるような気分というか、ぼんやりしたことを言われているなあという印象であった。まあこの人たちの立場からすればそうなるのは当たり前なのだけど。というか、芸術全般というテーマが広すぎるのか。

メインのトークは以下の3つ。

1.民俗学者の小松和彦氏が、柔和な口調で語っておられたのは、
「歴史上、共同体はスケプゴートを鬼(毒)として排除することで結束を強化・浄化してきた、芸術家はある種のシャーマンであり異界との接点である。」
というような話。しかしこれは、なんだか随分危険な考えを連想させる言い方だなあと感じた。
実際にスケープゴートを作る過程や、される立場を想像するとたまったもんじゃない。穢れと祓いからの連想なのだろうけど…。
学者は時々無邪気な子供のように残酷なことを言う。もっとも残酷なのは学者ではなくて世界の方か。

2.松尾恵氏の話はギャラリー経営や有毒女子という企画についての話。トークをした人たちの中で一番現場感覚のある内容で、そういう意味で共感できた。

3.吉岡洋氏はソクラテスやクラーナハにからめて毒を語り、結論は「芸術は毒であるかもしれないが、毒も薬になる」という、よく言えば綺麗な、悪く言えば無難というか割とよくある話という印象を受けた。でもまあ、よくまとまったトークの締めになっていた。



普段、こういうアートについての総論はあまり考えないので、そういう意味で良い経験になったと思う。

たとえば助成金の申請をするときや、パンフの文章を考える時、表現について語らなくてはいけない局面に立たされる。
しかし「芸術とは」という言い方をすると、どこかに嘘が入ってしまう気がする。トークの中にもあったけど、自分勝手であることとアーティストとして自由であることとの厳密な境界はないのだと思う。文化としての絶対的価値だって、そんなものはわからない。後世にじわじわ決まっていくものだろう。でも、ついつい自分に都合のいい言い方が混ざってしまう。

文化芸術育成にたずさわる方々には、そういう嘘を嘘のまま抱きしめてくれる度量を期待したいな、と思う。



(なんだか真面目なことを長々と書いてしまったよ…。)





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