2024年1月5日金曜日

私論による詩論の試論

 以前、たまたま、近所の詩人たちによる詩の朗読会というものを見る機会があった。(こういうことをすぐ書くと当人たちに知れて心証を悪くするものだと思うが、けっこう昔のことだし時効かなと思って書く)正直、退屈だった。

ただ、その時思ったのは、「詩の良し悪しって、なんだか評価しにくいな。どこが退屈だったかもうまく言えない。」ということだ。

例えば俳句なら、明確なルールがあるし、それを基準としてある程度はよいかどうか判断できるのに 口語自由詩ではそれが難しいのは何故だろう。

おそらくは、詩によってルールがばらばらで、それが一元化されてない、ということじゃないかと思うのだ。(と書いてみたが、それほど詩論などをちゃんと読んだことがないので、もしそういうものがあるのだったらごめんなさい。)

じゃあ、そのばらばらの現代詩たちはどこを目指してるのだろうか、ちょっと考えてみようと思う。うまくいけば、はじめてよくわからない詩に出会った時も無駄にもやもやしなくてすむようになるかもしれない。

 


書き物の分類、ということで私が頼りにしているのは漱石の「文学論」なので、(当人は完成前に崩れた不完全なものとしているが)それによって考えていくことにする。即ち、「知」「情」「非人情」が表現する目的の主要素だ、という考え方を進めてみよう。もちろんそれだけでは足りないのは分かってるがそれについては後述する。

さて、「知」つまり知性に訴える類の表現のことである、と文学論にはあった。これはくだけた言い方をすれば、「うまいこと言ってやった系」ともいえると思う。うまいことやった系と言うと、世間知だけを指す感じになるが、それだけではなく、この分類にイデオロギーや哲学も含むものとして考えたい。

世間知という分類だと川柳の大部分がこれに入ると思う。 それから、シェイクスピアの詩や一部歌謡曲などもそんな感じだ、一見情に訴えてるように見えて、うまいこと言ってやった感が強い。

イデオロギー、これはかなりの部分の日本戦後詩が含んでいるものだろう、この辺ややこしいのでまた後で考えようと思うが、吉本隆明氏や安東次男氏やなんかの多くの詩人の詩がイデオロギーと暗喩のミックスで読み解けると思う。哲学方向で行けば、宮沢賢治がいる。あと、説明が難しいが谷川俊太郎氏の詩も知性に訴える要素が多いような気がする。 この辺はもう「うまいこと言ってる系」というより、「考えさせられる系」だが。

ともあれ、雑なようだが知性を刺激させられる系のものをこれでひとくくり。


 

「情」は感情に訴える類の表現のことだ。大部分の短歌、与謝野晶子や石川啄木、 


…いかん、文が長くなりすぎる。根が切れてきたので、とりあえずここまでにして、また別に書くことにする。

ざっと概要を書くと、「情」と「非人情」について書いたあと、メタファーと「思わせぶり」について触れて、リズムについて書いて仕上げるつもり。ほんとに書けるのか?

 

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