2019年2月21日木曜日

ここしばらく曇ったり降ったりのぐずついた天気がいつまでも続いていて、なかなかすっきりしない。
けれども、そろそろ梅の咲いている時期かと思い、近所のスーパーに買い物に行きがてら梅を探しながら歩こう、と思った。

あちこち、近所の家の庭の植木を見て歩く。いつもの道を通ってしまうと、あまり梅に出会えないのはわかっているので、わざと慣れてない道をえらんで歩いてゆく。3つばかり角を曲がったところで、やっと白い、小さな梅の木がちらほらと咲き始めているのに出会う。けれども匂いをかぎにゆくにはちょっと離れたところにあるので、遠くから見ているだけにする。

思うのだが、梅の花は、におうと頭の奥の方でかすかな、りんという音がして何か世界を少し変えられてしまうような感じがする。あるいは、におうと、頭の奥の方のフィルターをこっそりと取り替えられているような気がする。

梅の仙人、というのがぼんやり思い浮かぶ。何かの物語に出てきたような気がするが、いったいそれは、どうやってなるものなのだろうか。もし自分が梅の仙人になれるとしたら、なりたいだろうか、などということをやはりぼんやり考える。中国の墨絵のようなイメージが頭のなかでちらりとする。

そんなこんな考えているうちにまたひとつ梅に出会う。また白い梅だ。どことなくあまり手入れされてない感じのする庭の、やはりちょっと届かないぐらいの奥の位置に梅の木がある。けれども、なんだか空気の中に梅の匂いがまざっているような気がする。

この辺りは小さな路地が多くて、道も京都の他のだいたいの路のように直角にはついていない。だから、自分がどの方角を向いているのか、ふっと不安になる。こんな近所で迷うことはないと思うが、そろそろ大通りに出てもいいはずなのだがと思う。
もしかして、こうやっていると梅に化かされるのだろうか。化かされて帰れなくなるのだろうか。

それもいいな、と心のなかで誰かがささやいた。

2019年2月20日水曜日

ゆたんぽ


 昨年末に北海道に行った時、ゲストハウスに宿泊したのだが、そこで寝るときに用意してくれた湯たんぽが大きくて暖かくて感銘をうけたので、帰宅してからあらたに大きな湯たんぽを購入して、以降夜は大きな湯たんぽを抱いて寝ている。
 ゆたんぽはじっと抱いて寝ていると、何だか自分の身体の一部になったような感じがする。特に朝方、だいぶんぬるくなって人肌ぐらいになった湯たんぽが、もそりと動いた弾みで、たぽん、と揺れるとき、自分の腹が倍以上も大きくなったように感じられて、これはえらいことだ、えらいことになったなと心の中でつぶやいてしまう。

2019年2月14日木曜日

なので

その幽霊はまだ私に憑いている。だから、その幽霊について書くことはできない。

2019年2月13日水曜日

車窓

 夜、電車で窓を見ていると、世界が何重にも重なって見える。とくに街中を通っているときはそうだ。
 まず、自分が映っている。その向こうに街の灯りがちらちらと通り過ぎてゆく。それだけなら分かりやすいのだが、映っている自分の後ろにも窓があり、その窓の向こうの明かりも、その窓に映った自分の後ろ姿やなんかもやはり見える。それらが眺めていると、透過しつつ、重なりつつ、複雑な旋律のようなものを頭に巻き起こしてゆく。
 旋律からはいくつかの思いがこぼれ落ちるのだが、こぼれた部分は夜が吸い込んでゆく。
 電車はそしらぬまま進んでゆく。

2019年2月6日水曜日

小さな買い物

いつもなんとなくコンビニの半額コーナーは見てしまうのだけど、今日は売れなさそうなヘアリキッドや旅行用せっけんにまざって、雪の思い出が置いてあった。
 たまたまドラッグストアでもらったコンビニ用50円引きクーポンがあったので、買ってみようと思って手に取ってレジに持って行った。ドラッグストアでコンビニのクーポンをもらうと変な気分になる。目に見えないところでいろんなお店がつながっているのを連想するのだ。地面の下に地下茎をのばして。

 持ち帰って、椅子に座り、眺めてみた。雪の思い出を買うのは初めてだ。だいたい即席袋めんぐらいの大きさで、外側の包装もそんな感じだ。わりとそっけない包装のはしっこにプラごみのマークがついている。そういえばそろそろプラごみも出さなくちゃいけないな、と思う。
 いちおう裏に貼ってある使用説明のシールに目を通す。と言っても簡単すぎるくらい簡単だ。取り出して、抱きしめるだけ。食事中には使用しないこと。他の商品と一緒に使用しないこと。

 抱きしめてみた。服の上からだとよくわからない感じなので、シャツの中に入れて抱きしめてみた。目を閉じて、そっと暗闇のなかに入った。